創立〜明治
義倉録二番より 義倉発端手続 部分(左)
義倉録一番 表紙(右)
飢饉・一揆の救済のため、河相周兵衛が中心となって発足
河相周兵衛像「義倉」は今を去る二百余年前、深津村庄屋石井武右衛門盈比(みつひら)の死に臨んで遺金銀六十貫目を千田村庄屋河相周兵衛に託された事に始まります。
周兵衛は当時の度重なる飢饉や荒れすさぶ農民一揆を目のあたりにして、この窮状を救う方途はないものかと熟慮すること8年、戸手村の庄屋信岡平六、福山豪商神野利右衛門、府中の義人大戸久三郎等の同志を糾合して銀三百貫を拠出、当時財政難に喘ぐ福山藩が石州銀山から借りていた借財およそ銀三百貫を肩代わりするのであります。
飢饉に備える民間救済組織の誕生
義倉田碑見返りとして利息相当分の銀四十五貫目を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済するという骨子(救法目論見)を作成して、藩公より認可を得たのが文化元年(1804年)でありました。
爾来福山藩の庇護と協力のもとに、飢饉時には米や金を放出して困窮者を救助する一大救済組織を作ったのであります。
活動の多角化
これら救済活動を行いつつ、「義倉」は一部の資金をさいて、著名図書の購入・医師育成のための助成・上方より著名人を招き儒学・神道・仏学の講釈を行う等の文化教育活動を展開しました。
これは他の義倉・社倉にはない大きな特徴の一つであります。